「健康経営」や「健康管理DX」と聞くと、専任の担当者がいて、予算にも余裕がある大企業の話だと感じる方は少なくないのではないでしょうか。実際、10月は健康経営度調査の回答期間にあたり、この時期は認定を目指す大企業を中心に、1年分のデータをかき集める慌ただしさが話題になりがちです。
しかし、健康管理DXの本質は、そうした大がかりな認定制度への対応だけではありません。「専任の担当者がいない」「予算に余裕がない」「システムを導入するほどの規模ではない」――そう感じている企業にこそ、実は始めやすく、効果を実感しやすいテーマです。健康管理の課題は、企業の規模に関係なく、どこにでも存在します。健診の受けっぱなし、ストレスチェック結果の活用不足、面談記録の散逸といった悩みは、大企業でなくとも十分に起こり得ることです。10月という年度の折り返しは、大企業か中小企業かにかかわらず、この1年の健康管理を振り返り、来年度に向けて小さな一歩を踏み出すのにちょうどよいタイミングです。
振り返りというと、「今年も特に大きな問題はなかった」といった感覚的な総括で終わってしまいがちです。しかし本来見るべきは、実施した施策そのものよりも、その先にある「効果」です。
実は、こうした振り返りが浅くなってしまうのには理由があります。健康管理を担当する人事担当者や産業医、看護職の多くは、他の業務と兼務しながら、日々の健診案内やストレスチェックの実施、個別対応に追われています。目の前の業務をこなすだけで精一杯で、1年を通して施策全体を振り返る時間をあらためて確保するのは、実はそれほど簡単なことではありません。だからこそ意識的に時間を取らない限り、「大きな問題はなかった」という印象論で片付けてしまいやすいのです。
振り返る際に意識したいのは、次の3つの視点です。1つ目は、「実施率」だけでなく「その先の効果」まで見ること。定期健診の受診率だけでなく、有所見者のうちどれだけが実際に再検査や保健指導につながったか。ストレスチェックを実施しただけでなく、集団分析の結果をもとに職場環境の改善に着手できた部署はどれくらいあるか。「実施率」から一歩踏み込んで「その後どうなったか」まで追いかけることで、初めて施策の実効性が見えてきます。
2つ目は、「個人」ではなく「部署・拠点」といった単位で傾向を見ることです。有所見者一人ひとりへの対応が適切だったかに目が向きがちですが、部署ごとにまとめると、「特定の部署だけ再検査の受診率が低い」「拠点によってフォローの温度差がある」といった組織的な偏りが見えてくることがあります。個別対応の集まりと見るか、組織の傾向と見るかで、次に打つべき手は変わってきます。
3つ目は、「単年」ではなく「経年」で見ることです。月ごと・部署ごとにデータを並べると、「4月は健診の予約が集中して現場が混乱した」「下期に入ってから面談の予約が減っている」といった、感覚では気づきにくい傾向が浮かび上がることもあります。記憶や印象だけを頼りに振り返ると、たまたま印象に残った出来事に引っ張られ、実際にはもっと大きな課題が見過ごされてしまうこともあります。1年を通じて起きたことを、記憶ではなくデータで振り返る。これが、次年度計画の精度を大きく左右します。
振り返りで見えた課題は、そのまま来年度の計画の材料になります。「有所見者へのフォローが手薄だったので、来年度はまずそこだけ改善する」「ストレスチェックの結果が芳しくなかった部署に、来年度は個別に声をかける」など、一つに絞って数字を根拠にした目標を立てるだけでも、前年との違いを比較できるようになり、取り組みの成果が見えやすくなります。
こうした「データに基づいて考える」という姿勢は、国が進める方向性とも重なります。厚生労働省が進めるデータヘルス改革やPHR(パーソナルヘルスレコード)の考え方では、健康情報を企業だけが抱え込むのではなく、従業員自身も自らの健康データを把握し、活用していくことが目指されています。これは大企業に限った話ではなく、企業の規模を問わず今後求められていく視点です。まずは自社でできる範囲から、数字で振り返り、数字で計画するという習慣を作ることが、その第一歩になります。
ここで誤解しておきたくないのは、「健康管理DX=システムを導入すること」ではないという点です。DXの目的は、あくまで「従業員の健康情報を必要な時に活用し、適切な支援につなげること」にあります。
多くの企業で起きているのは、健診結果やストレスチェック、面談記録が紙やExcelに分散し、「誰が要再検査だったのか」「受診勧奨は済んだのか」「面談が必要な従業員は誰なのか」が、すぐには分からない状態です。本来、人事担当者や保健師が時間を使うべきは従業員との対話や職場改善のはずなのに、資料を探す・確認する・転記するといった事務作業に多くの時間が奪われてしまう。DXによって置き換えるべきは「人」ではなく、こうした「作業」です。
まずは健康情報を整理し、誰が見ても必要な情報がすぐ分かる状態をつくること自体が、立派なDXの第一歩です。Excelの一覧表に「氏名・受診日・結果・フォロー状況」を並べ、更新のたびに担当者以外も確認できる場所に置いておくだけでも、状況は大きく変わります。従業員数が増え、紙やExcelでは管理しきれなくなってきたタイミングで、システムの活用を検討する、この順番であれば、企業の規模を問わず取り組めます。
実際にシステムを導入すると、健診結果や面談履歴を一つの画面で確認できるようになり、状況把握にかかる時間が大幅に短縮されます。経年でのデータ比較もしやすくなり、来年度の計画づくりに使える材料が自然と蓄積されていきます。何より、担当者個人の記憶やメモに頼らずに済むようになるため、異動や退職があっても対応が途切れにくくなります。システムは、人事担当者や保健師の専門性を発揮するための「パートナー」であり、事務作業を効率化することで、本来注力すべき従業員との対話に時間を使えるようにすることこそ、その本質的な価値だと言えるでしょう。
一方で、「システムを導入すれば業務が効率化する」という話を、現場のスタッフ全員が手放しで歓迎するとは限りません。新しいシステムを導入すると、まず発生するのが入力作業です。これまで紙やExcelで済んでいた記録を新しい画面に入力し直す手間が、一時的にせよ現場の負担を増やすことは珍しくありません。
システムを使う人と、その恩恵を受ける人が異なる場合、「自分たちの手間が増えただけ」という不満につながりやすい点にも注意が必要です。また、いきなり全社的な大掛かりなシステムを導入しようとすると、一部の担当者しか使いこなせず、結局これまでのExcel管理と併用される「二重管理」に陥ってしまうこともあります。導入すること自体を目的にせず、「誰の、どの作業をラクにするためのシステムなのか」を最初に明確にし、現場の声を聞きながら、まずは小さく始めることが、定着への近道になります。
健康経営やDXという言葉の大きさに、身構えてしまうかもしれませんが、まずは今年の健康管理データを、手元にある形のまま振り返ってみる。それだけでも十分な第一歩です。そこから見えた課題を一つ選んで、来年度の目標にする。システムの導入は、その先の選択肢の一つに過ぎません。
大企業だからできる、中小企業だからできない、という話ではなく、どの企業も自社の規模やペースに合わせて、一歩ずつ進めていける取り組みです。完璧な仕組みを最初から目指す必要はありません。まずは今年蓄積したデータを、あらためて眺めてみることから始めてみてはいかがでしょうか。