以前のコラムでは、新入社員や異動者が新しい環境で直面する「リアリティショック」や「聞けない問題」といった、職場への「適応のハードル」について解説しました。
4月という時期は、新入社員や異動者がこれらのハードルをなんとか乗り越えようと、無意識のうちに無理をして環境や周囲の期待に合わせすぎる状態——いわゆる「過剰適応」に陥りやすいタイミングです。
新しい仕事や人間関係に対する過緊張状態のまま1ヶ月を駆け抜け、ゴールデンウィークの長期休暇を迎えると、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、一気に生活リズムが崩れることが少なくありません。
その結果、4月の間に蓄積していた心身の疲労が「5月病」として表面化します。5月病は、単なる個人の甘えや一時的なモチベーションの低下として片付けるべきではなく、「過剰適応の反動」であり、適応障害の手前とも言える構造的なメカニズムによって引き起こされる不調なのです。
2.データで捉える「睡眠・生活リズム」とメンタルヘルスの関係
5月病のようなメンタル不調の兆しを早期に捉えるためには、精神論や気合いの問題としてではなく、フィジカルの観点からデータを用いて客観的に紐解くことが有効です。
厚生労働省が公表した「健康づくりのための睡眠ガイド2023」では、睡眠時間の確保はもちろんのこと、「睡眠休養感(睡眠によって十分に休まった感覚)」の重要性が強調されています。同ガイドによれば、睡眠休養感の低下は抑うつの度合いを強めるなど、こころの健康に悪影響を及ぼすことが示されており、不眠症はうつ病などの初期症状として現れることも少なくありません。つまり、睡眠はメンタルヘルスに直結する重要なバロメーターなのです。
ここで企業の皆様に注目していただきたいのが、「プレゼンティーズム」という概念です。これは、出社はしているものの、睡眠不足や軽度な心身の不調により、本来のパフォーマンスが低下している状態を指します。東大1項目版(SPQ)を用いた研究によれば、睡眠等の生活習慣リスクや心理的健康リスクを多く抱える社員は、そうでない社員と比較してプレゼンティーズムによる生産性損失が約3倍も大きいことが確認されています。
なんと、その差をコスト換算すると、1人当たり年間約100万円もの損失が生じると推計されています。また、うつ病や不安障害に伴う社会全体の損失(約5.5兆円)のうち、約75%はプレゼンティーズム等を含む「労働損失費用」が占めているというデータもあります。
睡眠不足や生活リズムの乱れを「個人の体調不良」として放置することは、企業にとって目に見えない莫大な労働損失(コスト)をもたらすため、組織として予防に取り組む意義は非常に大きいと言えます。
3.現場の管理職ができる「初期対応」と「NG対応」
では、部下の睡眠や生活リズムの乱れを察知した際、現場の管理職は明日からどのように動くべきでしょうか。最も重要なのは、心の内面にいきなり踏み込みすぎず、「客観的な事実(ファクト)」をベースに対応することです。
環境変化による適応課題は、いきなり「気分が落ち込んでいます」と内面の不調として語られるよりも、遅刻や欠勤といった勤怠の乱れ、ミスの増加、服装や身だしなみの乱れ、日中の強い眠気や疲労感など、目に見える身体・行動のサインとして表れることが少なくありません。
初期対応(OK例):
「最近、朝辛そうだけどちゃんと眠れている?」
「少しミスが続いているようだけど、業務量で無理していない?」
といったように、業務上の事実や生活リズムの変化を起点に声をかけるのが有効なアプローチです。
「メンタル不調の予防」と身構えるのではなく、「体調の変化を環境適応のサインとして捉える」スタンスで接することで、本人も周囲も声を上げやすくなります。
NG対応:
避けるべきは、「5月病なんて誰でも通る道だよ」「休日はパーっと遊んでリフレッシュしなよ」といった、睡眠負債などの生理的要因を無視した精神論や一般論での励ましです。
また、「うつ病じゃないの?」など、素人が病名を推測して決めつけることも、当事者を余計に不安にさせ、追い詰める逆効果となるためNGです。
4.「点」の対応を「線」の管理へ:初期対応〜継続フォローの仕組み化
現場の管理職が日々の変化に気づき「初期対応」を行うことは非常に重要ですが、それだけで終わらせてはいけません。
多くの企業で課題となるのが、管理職が部下の異変に気づいて声をかけても、その情報が人事や産業保健スタッフに共有されなかったり、その後の経過観察が属人的になったりすることで、結果的に休職に至ってしまうケースです。
このような事態を防ぐためには、管理職個人の気づきという「点」の対応を、組織としての「線」の管理へと昇華させる仕組みづくりが不可欠です。
具体的には、健康管理システム(Growbase等)を用いて、健康診断の結果や月々の残業時間、ストレスチェックの結果、そして面談記録を一元的に可視化することです。これにより、「例年に比べて明らかに疲労が蓄積している」「以前の部署よりストレス値が急増している」といった変化に、人事や産業医が即座に気づくことが可能になります。
また、現場の違和感を吸い上げた後、スムーズに医師による面談や指導へ繋げられる産業医との連携体制も欠かせません。ITによるデータ管理と、産業医という専門家の知見を掛け合わせることで、初めて「5月病」を入り口とした離職・休職の連鎖を食い止めることができるのです。
5.おわりに
5月病対策は、単なる従業員個人のメンタルケアにとどまるものではありません。それは、プレゼンティーズムという見えざる労働損失を防ぎ、組織全体の生産性を守るための重要な取り組みです。
春先の過剰適応の反動は、「心」の不調として深刻化する前に、まずは「睡眠」や「生活リズムの乱れ」といった身近なサインとして必ず表れます。
現場の管理職が客観的な事実に基づいて初期対応を行い、その情報を人事や産業医等の専門家と連携して組織全体で継続的にフォローできる体制を構築すること。それが、新入・異動者をスムーズに戦力化し、企業と個人の双方を豊かにするための第一歩となります。
2000年産業医科大学医学部医学科卒業。松下電器健康保険組合(現パナソニック健康保険組合)産業医を経て、2005年よりライオン株式会社統括産業医として勤務し、2015年4月よりにしのうえ産業医事務所開設。
現在は複数の産業医を主業務とし、その他、労働衛生コンサルタント、講演、執筆、学生指導、研究活動を行っている。